多様性社会について思うこと
多様性がだいぶ認められるようになって「声をあげることができなかった勢」が声をあげることができる、ちゃんと正当にみとめられるっていう社会は歓迎したいのだけれども、
それに伴いステレオタイプであることを非難する]というのは絶対あってはならないと思う。あとその権威にあやかってるだけのこととか。
結局のところそれは多様性の社会ではなく 「価値観が変わっただけ」 の社会だから1
「多様性、多様性」と声高にいう人がいたりするけど、それを実現するというのは
- (既存の枠が大きければ大きいほど)とてつもなく労力のかかることであったり
- 歴史を追っていきなぜそうなっていたのかということを知ってどう変えていくべきかを理解して
- しっかり地ならししていかないといけない慎重にやるべき
ということをどれだけわかっているのだろうか
〇〇じゃなければ認められなかったのに苦言を呈せるようになったのは、時代が変わって〇〇でも問題なくなったという歴史的な進歩があってこそで、そうした基盤はあった上で見直されるべきことだと思うのだけど
実は〇〇でやることによって生じる問題というのは何かしらあって、そういうのが起きたときにどう対処できるかというのも含めて変えていくべきだと思う。
つまり、目的としての 「何を達成したいのか」 を見ずに 手段としての 「〇〇を認める」 というのを目的としてしまっているのは悪手であるということ。
いま既存のあり方を変えようしてる人は様々な活動や主張をしていると思う そういう人たちがまず実現させたいのは
「多様性であるのを認めてもらう」ことでなく「既存の枠組みをアップデートさせようとしている」のだと自分は思っている
アップデートさせるというのは、今までその枠の中で基準として考えられていた項目に新たに項目が追加される、ということだと自分の中で考えている。
そしてその枠で問題が起きたときに、その本質を守るためにどうするかと考えて「やっぱりこの項目が足枷になっている」となれば上述した価値観が変わっただけの社会というもののままで、すべての項目の漏れなく本質を守るということが真の多様性社会なのではないだろうかと考えてみた。
関連
脚注
-
「おっさんをダイバーシティから除くな」という話 ↩